滾滾長江東逝水
浪花淘盡英雄;
是非成敗轉頭空,
青山依舊在、
幾度夕陽紅。

白髮漁樵江渚上,
慣看秋月春風;
一壺濁酒喜相逢,
古今多少事、
都付笑談中。

gǔn gǔn cháng jiāng dōng shì shuǐ
làng huā táo jìn yīng xióng
shì fēi chéng bài zhuàn tóu kōng
qīng shān yī jiù zài
jǐ dù xī yáng hóng

bái fà yú qiáo jiāng zhǔ shàng
guàn kān qiū yuè chūn fēng
yī hú zhuó jiǔ xǐ xiāng féng
gǔ jīn duō shào shì
dōu fù xiào tán zhōng

滔々とした長江の流れは東に流れ去り 
波の花揺れ 英雄より分ける
成敗の是非 振り返れば 虚しく
故郷の山 旧くより在り
幾たびの夕日を迎えたことか

白髪の漁師ときこりは江渚の上
 秋の月と春の風を見慣れ
一壺の濁酒に出会うはなんとも嬉しい
古今の出来事など 
すべて談笑のうちに付す

解説

 これが三国演義、つまり、三国志のモノローグです。
 これは、詩ではなく、詞。 
 もともと 宋の蘇軾『念奴嬌』(赤壁怀古ともいう)という詞が元となっている。逆のことを言うと、蘇軾『念奴嬌』がわかっていないと、これでなんで三国志の歌になるの? と言うことになる。英雄ぐらいしかそれらしい文字がないといえばない。
 しかし蘇軾『念奴嬌』がわかっていれば、どぶろくを酌み交わし話し合っていることは、赤壁をはじめとした三國の英雄たちのことで在ることがわかる。
 この歌に出てくる、木こりと漁師っていうのは、一般的に庶民のことも意味しているのだろう。まぁ、講談を聞きにきたんだから、お酒やお茶でも飲みながら、ゆっくり聞いて行ってね、という意味では、いい詞である。
 格調高く、とっつきやすく、余韻が残る。

注釈

滾滾 唐 杜甫 《登高》诗: “无边落木萧萧下, 不尽 长江 滚滚来。”
水がこんこんと流れる様。
東逝水 東に水が流れる=大河ドラマの大河と同じ。歴史の流れも入っている。
浪花 波の花。白波。
淘盡 より分ける
轉頭 頭を転じる=振り返る。voだから、この転は動詞。副詞だと、かえって、一層。
青山 青い山でもいい。さだまさしとかは、山のは死にますか? とか川は死にますか? と、歌っていましたが、こう言う詩詞で自然のものが出てきたら、それだけ長い間存在している=それに比べて人間のなんと儚いことか、と言う意味になることが多い。
依舊 むかしのまま
幾度 なんども
夕陽紅 夕焼け。晩年の意味もある。何度も王朝が代わったり、と言う意味もあるだろう。
漁樵江渚上  宋 苏轼 《前赤壁赋》: “况吾与子渔樵于 江 渚之上, 侣鱼虾而友麋鹿。” 同じテーマで似た表現がここにも在る、この場合だと 魚を取ってきこりをする、となる。これでは後の文脈で、だれが酒を飲んでるのかわからなくなる。だから、きこりと漁師。 木こりと漁師は都会人ではない、田舎に住まう人のこと。
隠居を指す場合もある。
慣看 みなれる
秋月春風 春夏秋冬の移り変わり。春と秋。春秋といえば歴史という意味もある。(木こりと漁師がそんなに長生きなわけもないので、見慣れるのもおかしいのだが)
古今多少事 昔から今までのたくさんのこと
楊慎(1488~1559)
明代文学家。字 用修,号 升庵。新都(今の四川)。また、号に逸史氏、博南山人、洞天真逸、滇南戍史 、金馬碧鶏老兵などがある。
祖籍は庐陵。明代三才子の一人。正徳6年殿試で状元(第一位)及第,官翰林院修撰をもらう。父の楊廷和も官僚で内閣大学士まで上り詰める。父親は大礼の議問題で辞任。皇帝にことを申し立てたために平民に落とされ、雲州永昌衛に流刑。享年72。著作は数百種に及ぶ。
妻の 黄娥も文学人。
資料
《杨升庵太史慎年谱》
《名山藏·卷八十五》
《明史·卷一百九十二·列传第八十》

平仄 

中中中中平中仄,平平中仄平
中平中仄仄平。仄平中仄仄,中仄仄平

中中中中平中仄,中平平仄平
中平中仄仄平。中平中仄仄,中仄仄平

平仄 丸表記

律格

臨江仙
格八双调六十字 
上下片各五句
押韻 平三韻
贺铸《临江仙·巧剪合欢罗胜子》